月影れあなの憂鬱

 月影れあなは今日何度目になったかわからない深いため息をついた。
 月影の目の前には水浸しになった廊下と、少し前までその水が入っていたバケツ、アイロンをかけたばかりの一人で持つには多すぎるシーツの山、そしてバケツにつまずいた新人メイド渚女悠歩。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 渚女は水浸しの廊下に土下座して、メイド長たる月影に平謝り。
 謝るよりも前にやることはあるんじゃないかと、この屋敷で奉公するようになってかなりの年数になる月影は思うのだが、それを言うと優先順位が決められない渚女がパニックに陥るのが目に見えているので黙っていることにした。
 そのかわり屋敷の各所で掃除をしているメイドを呼び集め、片付けるよう命令する。せっかくきれいになったシーツの一部は水に濡れ、もう一度洗濯からやり直しだろう。今日はご主人様のお客様が泊まられるというのに、シーツが足りるのだろうか。
 屋敷に雇われているメイドには、渚女と同じ時期に雇った者が二人いる。二人とも廊下の様子を見るとすぐに雑巾を探せるだけ持ってきて水をふき取り始めた。
 普通はその程度の機転は利かすのに、と思って渚女をちらっと見たら、まだ平謝りしていた。
 またため息が出た。
 シーツは別のメイドがランドリールームに持っていった。だからといって何もせず謝っていればそれですむという問題ではない。廊下を拭くのを手伝うとか、少なくとも拭くのに邪魔にならないよう移動するぐらいできないものだろうか。
「渚女さんはもう行って着替えてきなさい」
 いらつきが声色に出てしまった。渚女はそんな月影に気づいたかどうか。第一自分の服の裾が濡れているのかどうかも気がついているとは思えない。
「で、でも……」
 こういう時に限って口答えする。月影は思わず奥歯を噛み締めてしまった。
「今日はお客様がいらっしゃいます。渚女さんは応対を仰せつかっているのでしょう? ご主人様に恥をかかせるつもりですか」
 彼女が雇われてから客人が多くなったような気がする。そして、客人の接待に必ず渚女が呼ばれる。
 彼女が役に立っているとは思えないので、見て楽しむために呼ばれているのだろう。
 けれども、屋敷には渚女より可愛らしいメイドは何人もいる。月影自身、年齢はともかく容姿が劣っているとは思えない。
「でもバケツをひっくり返したのは……」
「いいから早く着替えてらっしゃい!」
 みなまで言わせず吐き捨てるように追い立てる。
 どうしてご主人様は彼女をやめさせたりはしないのだろうか。

「可愛いと得だねえ」
 先ほどの顛末をご主人様に話すと、なぜかそんな答えが返ってきた。
 どうして「可愛いと得」などと言われるのかよくわからず、月影は聞き返してしまった。聞き返すなど、使用人としてやってはいけないことなのに。
 渚女が来てからどうも調子を崩しがちだ。月影はとりあえず新入りメイドのせいにして心の静穏を保つ。
「渚女たんは可愛いから、月影さんも放っておかないんだよな」
 そういう問題ではない。
 ご主人様は、渚女のことを「渚女たん」と呼ぶ。他のメイドにそのような呼び方をした記憶が月影にはない。
「僕なんか先祖代々の財産がなければほったらかしなんだ……」
 何が悪かったのか、ご主人様が鬱々としてしまった。
「そんなことはありません。ご主人様は財産の管理をきちんとしていらっしゃいますし、私たちによくしていただいています」
 月影は慰めようとするが、的外れだったらしい。さらに鬱々と沈み込んでいる。
「渚女たんが来るまで客なんて来なかったし、みんな渚女たんが目的なんだ」
「そんなことはありませんよ。いくら渚女さんが可愛らしくても、それだけならわざわざ屋敷までみなさんいらっしゃったりはしません」
「そうかな?」
「そうですよ」
 自信を持って、きっぱりと。
「じゃあ、渚女たんのことは、もう少し様子を見てくれるかな」
 ご主人様がにっこりと笑ったような気がした。
 結局月影はご主人様の笑顔には弱いのだ。


お題もの書き2005年04月特別企画「かけるん萌え萌え杯」参加作品(2005/05/02)

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