釣り

「……小宮くん、起きてる? ショートホームルーム終わったよ」
 雅美は窓際で外を向いたまま微動だにしない少年に、背後から声をかけた。
「しっ、静かに。逃げる」
 音無き声が頭に響く。
 彼女は頭に直接送り込まれてくる音というものに未だに慣れておらず、どこから聞こえてきたのかとしばらく迷ってしまった。
 その間も、小宮は微動だにしない。
 そんなに熱心に何をしているのだろうかと彼に近づき、鳥でも来ているのだろうかと窓を覗き込んだ。
 瞬間、何かが雅美の目の前を下から上へと通り過ぎていき、あまりの勢いで彼女は顔を引っ込めた。
 声も出なかった。
 あきらかに何かがいて、それが雅美が顔を出したのに驚いて逃げていったのだろう。彼女には何がいたのか全くわからなかった。
「逃げちゃったじゃないですか」
 すぐ隣から聞こえてきた非難めいた声が誰のものなのか、彼女はすぐにはわからなかった。隣にいるのは小宮しかいないのだから、彼の声に違いない。そのふわふわとした容姿に反して硬質だったとしても。
 そういえば、雅美がまともに彼と話をするのはこれが初めてだ。まともでなければ何度かある。予鈴がなっても学校の中庭で呆然と突っ立っているのを引っ張って教室に連れ戻した時は、心ここにあらずといった表情で「はい」としか言わなかったものだ。その時彼女が言ったことが伝わっていたかどうかも怪しい。
 雅美は小宮の前の席の空いた椅子に座り、彼を観察することにした。栗色のやわらかそうな髪の毛は、光を通すと金色にも見える。色白で、中学生で通りそうなぐらい若干幼めな丸顔は、非常に整った顔立ちのくせに表情が全くない。灰色の瞳は隣に座った雅美など全くの視界外であるかのように、ただ外を見つめている。合服のカッターシャツは袖口を一度折り返している。その手元には細い竹竿が握られていて。
 細い竹竿?! 雅美は目を見開いて竹竿を見つめた。身長ぐらいありそうなその竹竿は半分以上窓の外に出ていて、その先から細い糸が垂れている。今まで気がつかなかったのがおかしいぐらいだ。
 糸の先に何があるのかを知りたくて窓から身を乗り出そうとしたが、ブラウスを引っ張られる感触で断念した。
「何してるの?」
 できる限り小さな声で、でも彼に伝わるように雅美は問いかけた。答えは直接頭の中に。
「釣り」
 釣竿を持って、その先に糸が垂れているのなら、たしかに釣りだろう。だがここは釣り場ではなく教室だ。
「何が釣れるの?」
 声を出さずに言葉を伝える、などという芸当は雅美にはできないので、小声のまま問いかける。答えはやはり頭の中に。
「いろいろ」
 頭痛がしてきた。いろいろ、では何がなんだかさっぱりわからない。少なくとも魚ではないだろう。
 何か少し変わってるな、とは思っていたが、ここまで変だったとは。そう思った直後に、彼女は自嘲気味に顔をゆがめた。世間一般から見れば、彼女自身「変」なのだから。この学校にいる生徒全員が「変」のレッテルを貼られる部類だから。
 世の中には、変なものが見えたり、聞こえたり、感じたり、使えたりする人がいる。そういう人をまとめて三年ほど勉強させて、使い物になればそれでよし、ならなくても迷惑方面には進まないように教え込む、というのがこの学校の趣旨らしい。雅美自身はちょびっとだけ「使える」だけなのだが、小宮はどうやら「見えたり、聞こえたり」の人らしい。いや、音なき声を伝えることができるのだから、「使える」人でもあるのだろう。
 せっかくの癒し系美形なのに。彼のことを「天使のよう」などと表現してほめそやす先輩たちがこんな一面を見たらどういうのだろう。などとわけのわからぬ思考をしていたので、雅美はその一瞬を見逃した。
 雅美の目の前を何かが動いた。窓から飛び出したそれは一直線に小宮に向かっていく。彼にぶつかる! と思った瞬間、彼はハシッとそれを掴み取った。
 小宮の左手の釣竿は上を向いていて、右手には野ざらしになったブロンズ像の色をした爬虫類の質感を持ったものが、蝙蝠のような翼でバタバタと暴れている。
 始めて見るガーゴイルを目の当たりにして動けなくなっている雅美に、小宮はにっこりと笑ってみせた。


お題もの書き2005年06月テーマ企画「釣る」参加作品(2005/06/23)

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